お堂


お堂正面
お堂正面
お堂正面の額です。「奉納 穴観音」「岩屋山古蹟名所顕想記」
お堂正面の額です。「奉納 穴観音」「岩屋山古蹟名所顕想記」
お堂内の玄室入り口です。「辨財天」の額
お堂内の玄室入り口です。「辨財天」の額
お堂の玄室内の様子です。正面「鏡石」、左手前から「維摩居士」等、「種字十三仏」
お堂の玄室内の様子です。正面「鏡石」、左手前から「維摩居士」等、「種字十三仏」
「辨財天十五童子」線刻像
「辨財天十五童子」線刻像
「十五童子」拡大
「十五童子」拡大

岩屋物語(穴観音の弁財天) 

 

 備中誌奥坂村の項の「穴観音」には、「岩屋山観音院構之・・・・堂の本尊馬頭観音也」とあります。

 この記述では、岩屋の観音院が管理し、本尊は馬頭観音になります。では、穴の奥正面の岩に彫られた像は本尊の馬頭観音なのでしょうか。 (奥の正面岩の像が本尊と理解しています。)

 

 寺社天保録(奥坂村・穴觀音)では、「奥の正面に観音の尊容を彫付たり」とあり、馬頭観音とみなされていたのかもしれません。余談ですが、「文明十一(1479)年より天保七年まで三百五十八年になる」とあり、この記録は天保7年(1837)のものと思われます。さらに、「穴の口両脇厨子に[東千手観音・西馬頭観音]安置」とあり、奥の正面石のことではないようにも思えます。

 

  郷土史家の永山卯三郎氏は、「吉備郡史上巻」のP443の絵図に「馬頭観音ヲ刻ス」と 記載し、郷土史の「阿曽村」の穴観音の項には、「奥坂の一古墳の鏡石に観音像が刻まれ 本尊とされて居る。」とあります。総社市史(通史編)には、P368「古墳玄室の正面にある鏡石には馬頭観音が線刻されている。」 ここまでは、「馬頭観音」が通説となっていました。 

 

 しかし、平成11年になって高知市の方が拓本をとるため調査された結果、「弁才天十五童子像」であることを示されました。目視では確認しがたいのですが、デジカメで撮影して明暗輝度調整すると十五童子の姿がかなりはっきり判ります。堂内に掲載されている写真がその拓本の写しになります。

 

 さらに、昨年(2014年)早春、県博の仏教美術が専門の西田さんの調査結果も、弁才天十五童子であり、時代は早くても江戸初期までとのことでした。 かくして、「弁財天十五童子」が有力になりました。さらに時代特定が待ち望まれます。

 

「種子十三仏」
「種子十三仏」
左から、「維摩居士」「文殊菩薩」「毘沙門天」(諸説あります)
左から、「維摩居士」「文殊菩薩」「毘沙門天」(諸説あります)

 右側から毘沙門天、文殊菩薩、維摩居士と認められます。

 毘沙門天は岩屋山の縁起(岩屋物語)によると、開祖道教が「あるとき僵れ木にある蟲蝕の文字に多聞天(毘沙門天)一切衆生を済度せん、と認めたことから、

その姿を彫刻し御堂に安置した」ことを示しているのかもしれません。

 また、文殊菩薩と維摩居士とすると「維摩経」のひとつのシーンが想起されます。

 毘沙門天の特徴は、左手に宝珠を持っていることから、文殊菩薩の特徴は獅子に乗っていることから想定できます。

 左端の維摩居士は、その線刻像そのものからの想定は難しく、ある歴史書には、「羅漢」とも記述されています。

 維摩居士とみなすと、聖徳太子の三経義疏の一つの「維摩経義疏」にもあるように、初期大乗仏教の経典として重んじていた僧の関わりが想像できます。

 

 

 なお、既存の歴史書にはなく、初めて「維摩居士」と認めた人は、高知の岡村氏の調査報告によります。