随想集


岩屋物語(穴観音の仏たち)

岩屋物語(穴観音の仏たち)

鬼ノ城山麓にて
西尾隆明
2017年12月15日

 穴観音について詳細に記載されているのは寺社天保録である。寺社天保録は、奥坂村の穴観音の項に、「文明十一年より天保七年迄三百五十八年になる」とあることより、天保七(1836)年以降の記録と考えられる。そして、寺社天保録の記述では、文明十一天(1479)を穴観音の開基とみなしている。同時期の「奥坂村神仏社堂改帳扣帳(天保十一年)」では、「垣内 塚観音 村辻構ひ」とあることから、村内にあり、塚観音と呼び、村人が管理していたことがわかる。穴と塚はいずれも横穴式古墳を表す言葉で、同一と思われる。
 また、これより少し後の
備中誌では、「此穴観音は岩屋山観音院構之」とあり、岩屋の観音院の関与もあったのかも知れない。なんとか観音と呼ばれている理由の一つとも思われる。観音院の別院(庵)の呼称として「穴観音」と呼び、当初は観音さま(後述)を祀っていたのかも知れない。最初の岩屋山観音院のあった場所(岩屋休憩所への途中で、観音院の墓地がある所)近くの道端に、現在弁財天石像がある。最近の作のようだが、観音院と辨財天との関係を示唆しているようにも思える。

 では、主なる祀りの対象は何であろうか。前記の寺社天保録では、「奥の正面に観音の尊像を彫付たり」とあり、鏡石に観音像を彫っていると記載されていることがわかる。
 少し後の備中誌では、「堂の本尊馬頭観音也」とあり、寺社天保録でいう「正面に観音」は本尊であり、馬頭観音(線刻でないかも)であると記録されている。

 しかし、昭和40(1965)年になって
岡山文庫の⑦岡山の仏たちには、「石窟の正面に侍者を従えた辨財天」と初めて、辨財天と侍者(十五童子)であると記載されている。その後の吉備郡史総社市史においても、馬頭観音としているようである。
特に
総社市史では、弁財天の記載はあるが左手前の三体の線刻像(後述)の一つをさしているようだ。

 次にこの三体の線刻像の前に、梵字の種子十三仏の線刻について述べたい。
種子十三仏については、
寺社天保録に「梵字十三字 一字毎に蓮臺を彫字を載たり 十三佛ならんか」と記載されている通りである。後の史料も同様である。ただし、「文明十一天 周歡」とあることより、開基時期と開基者、あるいは追善供養時期と供養者、あるいは被供養者との諸説があり、未だ定まっていない。

 最後に左手前の石に刻まれた線刻像は何者であろうか。三体あることは、寺社天保録以来、異存がないようだ。
 寺社天保録では、「右方に毘沙門、左方に達磨、中尊に獅子に乗りたる佛 文殊か」とある。備中誌では「石面に佛体三ツ彫付たり」とのみあり、仏の名は示していない。
 岡山文庫では、「毘沙門天、摩利支天(はっきりしないが動物に乗っている天部に見えるから)、僧形を陰刻し、」とあり、毘沙門天のみ明確にされている。

 
吉備郡史では、同様に「佛像三体なり」とのみある。
 
総社市史通史編では、「羅漢像・弁財天像・毘沙門天像の三体が線刻されている。」とあり、毘沙門天以外は何を根拠に断定しているのだろう、実際に見ていないような感じだ。

 さらに
総社市史美術編では「 弁財天・羅漢など数点の石刻像が認められる」とあり、通史編と大差ない記述だ。
 総社市史美術編の「弁財天」説は論外として、その特徴から右の毘沙門天(手にしているものから)、中央の文殊菩薩(獅子に乗っていることから)は、明らかである。ただし、左の像は、史料の中では、達磨や羅漢や僧形と未だに定まっていない。

 かくして、平成11(1999)年4月に拓本調査で来られた高知在住の
岡村氏の見解によって、「維摩」であると再確認されている。「維摩」の特徴が何かは不明である(興福寺や法華寺には像はあるが線刻仏の事例はない)が、維摩経の一シーンである、『ブッダに命じられた文殊菩薩が維摩居士の病気見舞いに行く様』とみなすと実に感動的である。穴観音の僧、あるいは岩屋山観音院の僧が深く維摩経に関わっていたと思わずにはいられない。観音院と維摩経については今後の課題である。

 ここに
岡村氏の見解をまとめてみる。
その前に実は、1992年3月に発行された『
第2次岡山の石仏(石仏同好会)の機関紙』、岡村氏が参考にと提出された資料ですが、がある。そこで既に、弁才天十五童子と維摩、文殊、阿難(多聞から毘沙門天を暗示)と見て、維摩経を背景とみなしている。
 毘沙門天はその姿からもほぼ断定できる。

 改めて、正面鏡石に
弁財天十五童子像、左手奥の石には種子十三仏、左手前の石には右(奥)から毘沙門天、文殊菩薩、維摩の線刻像が刻まれていることが明らかになった。
 毘沙門天の像の由来は、
岩屋山縁起にある道教が初めて祀った多聞天(毘沙門天)からかも知れない。岩屋には鬼の差し上げ岩の近くに毘沙門堂が現存している。

 過去の少ない史料を紐解くことによって、思いっきり想像力を働かせてみた。明らかな誤りを見つけることもできたが、真実はまだ遠くにある。穴観音の歴史を探る過程で、維摩経に出会ったことは大きな収穫であった。
 理解力不足のため、その真髄をわかりやすく紹介できないことが残念である。

2017年12月14日:初稿

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参考史料
記録(発行)した年代順に一覧にしている。
(注)写真は村岡氏の拓本を掲載しています。

『寺社天保録』
(奥坂村穴観音の項に「天保七(1836)年迄・・・」とある)
・賀陽郡阿宗郷奥坂村の項
「奥の正面に観音の尊容を彫付たり」、「右方に毘沙門 左方に達磨 中尊に獅子に乗りたる佛 文殊か」とあり、さらに、「両脇厨子に東千手観音 西馬頭観音安置」とある。
詳しくは『穴観音』を参照してください。

『備中誌』
 国会図書館デジタルコレクション
 明35-37

『岡山文庫』⑦岡山の仏たち
昭和40(1965)年6月10日 発行
著者 脇田 秀太郎 日本文教出版株式会社
・梵字十三仏の項
「石窟の正面に侍者を従えた辨才天(高さ約60センチ)、向かって左側の石面に右から梵字の十三仏、毘沙門天、摩利支天(はっきりしないが動物に乗っている天部に見えるから)、僧形を陰刻し、十三仏の下部に文明十一天、周歓、已亥と三行に刻まれている。」

『吉備郡史』
 昭和48(1973)年発行
 編者 永山卯三郎
・第一編 上古 3、穴観音の古墳の項
「奥に本尊馬頭観音を安置」とあり、図には「馬頭観音を刻す」と記されている。他に「仏像三体なり」とのみ記されている。

『総社市史 美術編』
昭和61(1986) 年発行
・穴観音種子十三仏 の項
鏡石にとの記載はなく、「弁財天・羅漢など数点の石刻像」とあるのみである。

・『総社市史 近世 資料編』
 平成2(1990) 年発行
 萱原家文書 『備中賀陽郡上房郡寺社改帳』貞享二(1685)年
穴観音の記載はない。当時はまだ開基されてなかったかも知れない。
 服部家文書 『奥坂村神仏社堂改帳控』天保十一(1840)年
「垣内 塚観音 村辻構ひ」とあり、これが穴観音のことと思われる。

『第2次岡山の石仏』
 平成4(1992) 年発行
 石仏同好会(加藤孝雄主宰)
 ・26奥坂の穴観音の項
 「羨道の奥の玄室正面の鏡石の・・・・八臂の弁才天・・十五童子・・・まぎれもなく弁才天十五童子像である。」「3体の線刻像・・・・」の箇所で、維摩、維摩を見舞いに来た獅子に乗る文殊、その問答を聞く仏弟子阿難は多聞(知識の深い)の人で多聞天(毘沙門天)を添わせた三尊としている。これが「維摩」の初見である。

『総社市史 通史編』
 平成10(1998)年 発行
 ・第三章 第五節 宗教の展開より
 「鏡石には馬頭観音像が線刻されている」
 また「手前の石壁には、羅漢像・弁財天像・毘沙門天像の三体が線刻されている」とある。

岡村氏拓本
 平成11(1999)年4月制作