随想集


岩屋物語(穴観音考)

岩屋物語(穴観音考) 2015年4月20日 
血吸川を歩く 穴観音にて


穴観音はご覧のとおり横穴式古墳を転用した社になっています。備中誌奥坂村の項の「穴観音」には、「岩屋山観音院構之・・・・堂の本尊馬頭観音也」とあります。
 この記述では、岩屋の観音院が管理し、本尊は馬頭観音になります。では、穴の奥正面の岩に彫られた像は本尊の馬頭観音なのでしょうか。 (奥の正面岩の像が本尊と理解しています。)
 
寺社天保録(奥坂村・穴觀音)では、「奥の正面に観音の尊容を彫付たり」とあり、馬頭観音とみなされていたのかもしれません。余談ですが、「文明十一(1479)年より天保七年まで三百五十八年になる」とあり、この記録は天保7年(1837)のものと思われます。さらに、「穴の口両脇厨子に[東千手観音・西馬頭観音]安置」とあり、奥の正面石のことではないようにも思えます。
  郷土史家の永山卯三郎氏は、「
吉備郡史上巻」のP443の絵図に「馬頭観音ヲ刻ス」と 記載し、郷土史の「阿曽村」の穴観音の項には、「奥坂の一古墳の鏡石に観音像が刻まれ 本尊とされて居る。」とあります。総社市史の通史編には、P368「古墳玄室の正面にある鏡石には馬頭観音が線刻されている。」 ここまでは、「馬頭観音」が通説となっていました。 
 しかし、平成11年になって高知市の方が拓本をとるため調査された結果、「弁才天十五童子像」であることを示されました。目視では確認しがたいのですが、デジカメで撮影して明暗輝度調整すると十五童子の姿がかなりはっきり判ります。堂内に掲載されている写真がその拓本の写しになります。さらに、昨年(2014年)早春、県博の仏教美術が専門の西田さんの調査結果も、弁才天十五童子であり、時代は早くても江戸初期までとのことでした。 かくして、「弁財天十五童子」が有力になりました。さらに時代特定が待ち望まれます。 

 入口に「岩屋三十三観音」の地図、つづいて「観音めぐりみち」と「岩屋山三十三観音 奥坂霊場参拝口」の看板があります。


 まず、「
岩屋三十三観音」についてですが、鳥羽久治が明和三丙戊(1766年)季春上浣の「岩屋物語(下)」によれば、『寶暦六甲子(1755)年信心のともがら人々にすすめて三十三所観世音の尊像石佛を安置し奉り』とあり、いつ安置したかが判ります。
 当初は
岩屋観音院(一番)から始まり、鬼ノ城東の大2展望台、南門、西門からビジター センター西、そして犬墓山、馬頭観音(廿九番)を経て、鬼の差上げ岩までに33体が安置されていました(入口の地図参照)。現在はその内の17体がこの穴観音周辺にあります。境内に記念碑もありますが、大正13年に、17体の観音石像を背負って、穴観音周辺に安置したのです。
 何か緊迫した事情があったのでしょうか、経済的裏付けと宗教的な熱意と行動力に村民の底力を感じます。 現在も岩屋・鬼ノ城周辺と穴観音周辺に一つも欠けること無く、33体全部が揃っています。 貴重な郷土の財産です。寶暦六甲子(1755)年から260年にもなります。 
「観音めぐりみち」には、全ては揃っていませんが八十八ヶ所霊場もあります。 境内には
文英石仏が一体、境内周辺には、横穴式古墳が数個(穴観音古墳群)あります。 
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2017年12月15日:改定